陶磁器の美
読者は恐らく宗教哲学を専攻する私から、このような題目を得ようとは、
よもや予期しなかったであろう。併し私は永らくこの題材を愛していた。私
はこれによって貴方がたの前に、一つの親しい美の世界を提供し得ると考え
ている。又これによって美の神秘に如何にして近づくべきかということをも
告げ得るかと思っている。陶磁器が含む美に就いて、私の考えや感情を述べ
ることは、強ち私にとって不適当なことではなかろうと思う。何となればこ
の材料を取扱う時、必然私は美の性質にまで触れなければならないからだ。
美は如何なる意味を内に包むか、それは如何にして現れ、又それを如何なる
風に味わねばならぬか。これ等のことがこの一篇を書くに就いて絶えず思い
出された事柄である。それ故この篇を読むにつれて、この題目から連想され
る奇異な感が、まもなく貴方がたから去るであろうと私は考えている。私は
貴方がたを一つの見慣れない美の世界に誘うことが出来ないならば、このよ
うな題目を選びはしない。
一
読者は特に東洋での日々の生活の友であった陶磁器に就いて、嘗て何事か
を考えたことがあるであろうか。それ等のものが吾々の周囲に余りに多いた
めに、却って多くの者はそれを顧みる心を忘れているようである。而も近代
に於いてその技巧や美が著しく沈んだために、人は深い感興をそこに起す機
を失っているかも知れぬ。これに反して或る人はかかるものを愛するのを、
弄ぶ遊戯に過ぎないと云って、その心を卑しむようにさえ見える。
併しそうではない。尽きない美がいつもそれ等の器の中に厚く包まれてい
る。かかる不注意や、かかるものの見方は寧ろ人々の心が現代に於いて、味
なく荒んできたことを告げるのではあるまいか。人々はそれ等のものが、嘗
ては日々の親しい友であったことを忘れてはならぬ。それを只の器だと言い
過ぎてはいけない。日毎日毎に人々はそれ等のものと共に労いの時を過ごし
ている。人々の煩いを柔らげようとして、凡ての器はよき形をと選んでいる。
よき色を模様をと示している。陶工は嘗てそれ等のものに美を包むことを忘
れなかったのである。それは人々の周囲を飾り、眼を慰め、心を柔らげよう
とて作られたのである。吾々の日々の生活が如何にそれ等のものの匿れた美
によって知らず識らず温められているかを知らなければならぬ。今日の人々
は喧しい蕪雑なこの世の生活のうちに、それ等のものを顧みる余裕を愛しな
いかしら。私はかかる余裕を貴い時間の一部であるといつも考えている。か
かる余裕を富の力に帰してはいけない。真の余裕は心が産むのである。富は
美の心までを作りはしない。美の心こそ吾々の生活を豊かにするのである。
若しも吾々にさえ潤った心があるなら、吾々はこの慎ましい窯芸の世界に
於いて、匿れた心の友を見出すことが出来る。それを只趣味の世界に過ぎぬ
と言い去ってはならぬ。そこにも予知し得ない神秘があり驚歎がある。そこ
に一度親しむなら、吾々はそれ等の美を通じて、民族の心情や、時代の文化
や、自然の背景や又人間そのものの美に対する関係をさえ味わうことが出来
る。それを弄ぶ趣味に止めるのは、見る者の心の卑しさによるのである。器
そのものが浅いのではない。若しもその内容に近づくなら、それはしばしば
吾々を深い世界に導いてくれる。美しさは又深さではないか。私は私の宗教
的思想が、実際それ等のものによっても、永い間育まれ温められてきたこと
を感じないわけにゆかぬ。私は私の傍に集めた幾つかの作品に対しても、私
の感謝の情を黙していてはならないように思う。
わけても陶磁器の美は「親しさ」の美であると思う。私達はそれ等の器に
於いて、静かな親しげな友を、いつも傍近く有つことが出来る。それは殆ど
私達の心を乱すことなく、いつも室内に私達を迎えてくれる。人は彼の好む
ままに彼の器を選べばよい。器も亦、常に私達の好む場所に置かれることを
待っている。それは全く人々の眼に触れようとて作られたのではないか。静
かに黙するそれ等の器も、必ず彼等に相応わしい心情を内に宿している。私
はそれ等のものが愛の性質を有っていることを疑うわけにはゆかぬ。それは
美しい姿を有っているではないか。而もその美しさは心の美しさが産んだの
ではないか。それは可憐な一人の恋人である。疲れた吾々にはそれが如何に
厚い無言の慰め手であろう。彼等は一時でもその持主を忘れはしない。彼等
の美しさはいつも変わらないではないか。否、日増しにその美しさを加える
ように思えるではないか。私達も彼等の愛を忘れるわけにはゆかぬ。彼等の
姿が私達の眼を惹く時、どうして思わずもそれに手を触れずにいられよう。
彼等を愛する者は必ずや二つの手の間にそれを抱き上げる。私達がかくして
それに眼を注ぐ時、温かい吾々の手をそれ等のものも慕っているように見え
る。人の手は器にとっては、きっと母の懐の温か味があるに違いない。愛し
得ない陶磁器がどこにあろう。愛し得ないなら、それが冷やかな手で造られ
たか又は冷やかな眼で見るが故であろう。
私は彼等に愛の性質を感じるにつれて、如何に陶工が愛を以てそれ等を産
み造ったかを想わないわけにはゆかぬ。陶工が一つの壷を彼の前に置いて、
余念なく彼の心をその内に注いでいる光景を私はよく想像する。試みに想え
よ、例えば一つの壷が作られつつあるその瞬間を。この世に於いて壷と彼と
只二人ぎりである。否、製作に余念ないその時、壷は彼に活き彼は壷に活き
る。愛が二人の間を通っている。一つに流れるその情愛のうちに、自から美
は生まれるのである。読者は嘗て陶工の伝記を読んだことがあるであろうか。
真に美に奉仕する一生の実例をしばしばそこに読むことが出来る。試練に試
練を重ね、幾度か失敗し幾度か勇気を起し、家庭を忘れ私財を尽くし、真に
仕事に一身を没入した彼等を、私は忘れることが出来ない。焼きに焼いて、
焼き至らず、既に薪を得る資も尽きて彼自からの家のみが薪として残る時を、
読者は思い至ったことがあるであろうか。実際幾度か自からを忘れる、かか
る異常な出来事によって、この世の優れた作品は得られたのである。彼等は
真に彼等の愛するものを作ることに自からを没したのである。吾々はそれ等
の作に包まれた熱情を冷やかに見過ごしてはならぬ。愛なくしてどうして美
が生まれてこよう。陶磁器の美も、かかる愛の現れである。器は実際に用い
られるがための器である。併し功利の念のみがそれを作り得ると思うのは誤
りである。真によき器とは同時に美しき器との意であらねばならぬ。功利の
世を越えて、愛が陶工の胸に満ちる時に彼は優れた作を産むのである。真に
美しい作は作ることそれ自からを楽しんだ時に生まれるのである。器が只利
のために作られる時、それは醜さに陥るのである。作者の心が浄まる時、器
も心も美しさを受ける。凡てを忘れる刹那が、美の至る刹那である。近世窯
芸の恐ろしい醜さは功利の心が産んだ物質的結果である。陶磁器を只の器だ
と思ってはいけない。器というよりも寧ろ心である。それも愛の籠る心であ
る。親しさの心に充ちた美であると私は思う。
読者はここにそれ等の美が如何にして生まれるかの過程に就いても深く省
みる所がなければならぬ。陶磁器の深さは常に冷やかな科学や機械的作法を
超える。美はいつも自然に帰ることを求めている。今日も尚美しく器を焼く
ものは自然の薪である。如何なる人為的熱力も薪によって得られる柔か味を
与えることは出来ぬ。かの轆轤も今尚自由な人の手や足を求めている。均等
な機械の運動は美しき形を産む力に乏しい。釉薬を最も美しい効果に擂り砕
くものは、あの不規則な遅々とした人の手の運動である。単なる規則は美を
産むことは出来ぬ。石も土も又は色も天然のものをこそ求めている。近世の
化学が贈る人為的色料が如何に醜いかを吾々は熟知している。吾々は朝鮮に
於いて、恐らくは支那に於いてもそうであろうが、しばしば動揺のはげしい
不完全な轆轤を発見する。併し古来かかるものが却って自然な美を産んだこ
とを想わないわけにはゆかぬ。科学は規則を建てるが、芸術は自由を欲する。
古代に人は化学を持たなかったが美しい作を産んだのである。近世に於いて
人は化学を持つが芸術に乏しい。製陶の術は日に細かく研究される。併し化
学はまだ充分に美しい作を産んでいない。私は今日の科学をその未完成な状
態に於いて謗ることを好みはしない。併し科学者は科学の制限に対して謙遜
な承認を持たねばならぬ。相対の科学は究竟な美の世界をも犯すことは出来
ぬ。科学は美に服従し奉仕すべき科学である。心が機械を支配せず、機械に
よって心が支配される時、芸術は永く吾々から去るのである。規則も一つの
美であろう。併し不規則は芸術にとって更に大きな美の要素である。恐らく
最も高い美は是等のものが一つに調和された時であろう。不規則中の規則が
最大な美を示すと私はいつも思う。不規則を持たない規則は只の機械に過ぎ
ぬ。規則を包まない不規則は紊乱に過ぎぬ。(支那や朝鮮の陶磁器が何故か
くも美しいかは、不規則中に規則、未完成中に完成が流れているからである。
日本の多くの作品は完成の癖に傾くが故に、しばしば生気を失っている。)
二
私はここに陶磁器の美を形成する種々なる要素に就いて、読者の注意を喚
起しようと思う。窯芸も空間を占める彫塑的芸術の一つである。それは嵩で
あるとか、奥行きであるとか、凡て立体によって現される性質を具有せねば
ならぬ。特にこの窯芸に於いて、その美を形造る根本の要素は云うまでもな
く「形」の美である。貧しい形はその利に於いても美に於いても、よき器と
なることは出来ぬ。ふくらやかな円みや、鋭い角や、厳かな胴や、これ等は
凡て形の変化によって産み出される美である。陶磁器になくてはならぬ安定
の性質を与えるのも形の力である。形はいつも確実な壮厳な美の基調になる。
特にこの点で傑出するのは、云うまでもなく支那の作品である。形はその民
族によって最も豊富にせられ、而も鞏固にせられた。支那によって味われた
形の美は、直ちに厳かな地の美をさえ想起させる。強大な民族が彼の心をよ
く托し得たのは、色でもなく、線でもなく、嵩量を有つ「形」そのものであっ
た。地の教である儒教が支那の民族的宗教であったように、地に安定せられ
た形がその民族の求めた美であった。端厳とか堅実とか壮厳とか呼ばれる強
い美は、主として形によって産み出される美である。
読者はあの廻転する轆轤の上で、人の手によって一つの形が産み出される
神秘な出来事を見たことがあるであろうか。それは手の所業というよりも心
の所業である。陶工はその刹那に於いて真に創造の何事であるかを味わうの
である。美の発作は不思議である。心の所業は微妙である。その形の極めて
僅かな変化に於いて、真に美と醜とが分かれるのである。一つのよき形を得
ることは、真に一つの創造である。卑しい心によって造られ得る豊かな形は
ない。水の形が器に従うがように、器の形は心に従うのである。地の人と呼
ぶべきあの強大な支那の民族が、厳かに地に置かれている形の美の創造者で
あったことを、私は意味深く想う。
立体の世界を要する窯芸は又一つの彫刻であろう。彫刻の法則がここにも
見出されると私はいつも思う。陶磁器に現れる美しい形は、自から人体にそ
の暗示を受けるのではあるまいか。人体に流れる自然の法則がここに守られ
る時、器も亦自然の美に活きてくるのである。試みに一つの花瓶を想い浮か
べて見よう。やや上に向かって開くその頂きは頭部を暗示する。そこにはし
ばしば美しい頬をも見ることが出来る。時としては耳さえも添えてあるでは
ないか。これにつづく狭まった所は頚部である。その辺りは人体に於いてと
同じようにしばしば非常に美しい。頬の下から頚を伝って肩に流れるその線
は、人の姿を想い起させるに充分である。器は続いてその主要な個所である
胴体を常に具えている。そこにはいつも豊かな健やかな肉づけがある。この
肉づけがないならば、器は自からを保つに堪えないであろう。それは吾々の
肉体に於いてと同じである。時として陶工は肩にそって左右に二つの手を添
えることを忘れない。これのみではない、あの高台(こうだい)は一つの器
を立たしめる足であろう。よき高台によって器は地の上に安泰である。私は
かく考えることが附会ではないように思う。人体が安定な法則を含んで佇立
するように、一つの花瓶も同じ法則を守って、安定な位と美とを空間に占め
るのである。私はしばしば器の面に人の膚を連想する。あの一つの壷も一個
のトルソーである。私はかく考えることによって一層その美の神秘に近づき
得ると思う。器にも活きた人の姿がある。
さて次に陶磁器を構成する二つの重要な要素に就いて私は語らなければな
らない。一つは「素地(きぢ)」であり、一つは「釉薬(うわぐすり)」で
ある。
素地は陶磁器の骨であり肉である。一般に素地は磁土と陶土との二種に区
別される。磁器の前者は半透明であり、陶器の後者は不透明である。器の様
様な種類は、何れかの素地の又はその二つのものの結合の変化によらねばな
らぬ。硬さや柔らかさや鋭さや温か味の対立は、主として素地の働きである。
厳そかな堅固な鋭利な性を好む人は磁器を愛するであろう。情趣や温和や又
は潤いを訪ねる人は陶器をより好むであろう。石の硬さと土の柔らかさとは
二つの異なる器を与えてくれる。あの明代の磁器と吾々の楽焼とは好個の対
峙である。あの激しい気候の大陸に生いたった民族は、その古い堅い磁土か
ら又激しい強い熱度から、それ等の鋭い磁器を造った。また新しい島国の楽
しげな民族は、柔らかい粘土から静かな熱によって、それ等の陶器を産んだ
のである。その自然はいつもその民族の美の母であった。文化がその頂きに
達して、凡てが調和の美に達したあの宋朝の頃には、陶磁の二は結合されて
あった。その時代に於いて人々は石と土とを好んで交え用いたではないか。
そこには強さと柔らかさとの合一がある。両端が中心に融け合っている。自
然のよき調和によって円かな文化は果たされるのであると私は切に想う。
素地と離して考え得られないのは釉薬である。釉薬によって器は全き装い
を得る。時としては澄む水のような、時としては晨の霧のような膚を通して、
器はその肉体の美を吾々に示してくれる。この膚の潤いこそは器の美に最後
の味わいを添える。透明な又は半透明な、或は不透明なその釉薬によって、
器は光多き性質を又時としては重味ある気質を受ける。一様に見えるその硝
子体にも無限の変化は存在する。読者は嘗てそれ等の玻璃がしばしば草木の
灰から得られることに、想い至ったことがあるであろうか。一と度死んだそ
れ等の灰が、火熱の勢いによって玻璃に甦える時、尚も草木の個性を保って、
種々なる装いを器に与えることを興味深く思わないであろうか。陶磁器の美
は人だけが産むのではない。自然がその美を守るのである。
器の膚とも思われる釉薬に就いて語る私は、必然そこに現れる「面」の美
に就いて一言を添えなければならぬ。これは器の美を産む重要な要素である
と私は考えている。与えられる光によって鋭い感じを起こすのも、温かい情
を思わせるのも、その面の変化によるのである。私はしばしばそこに人の脈
搏を感じることが出来る。彼等を冷やかな器だと見てはならない。その面の
内側には血が通い体温が保たれている。美しい作を見る時、思わずも私はそ
れに手を触れずにはいられない。面は吾々の温かい触覚をいつも求めている。
あの優れた茶の湯の器の如きは、吾々の唇を待ち、吾々の手を愛しているで
はないか。私は人の感覚を忘れなかった陶工の深い用意を空しく見過ごして
はならない。
併し面の美は吾々の触覚に訴えるのみではない。それは光との正しい結合
によって、最も鋭く視覚を惹きつけている。心ある人は注意して器を置く場
所を選ばねばならぬ。面は光に対して感覚が鋭敏である。静かな器は静かな
光の中に置かなければならぬ。それは私達の心を静め、沈黙の美を味わして
くれる。力強い面が器の体に沿って示されているなら、それを光の貧しい場
所に置いてはならぬ。面は陰影の美によって器を一層吾々の前に浮び出させ
る。
面のかかる種々な性質は、形や素地や又は釉薬によるではあろうが、最も
その美を決定するのは一つには焼き方である。実に面の秘密は釉薬の溶け具
合によるのである。製陶の術に於いて恐らく最も神秘な謎を包むのは、それ
を焼く火の性質であろう。熱度の高低はもとより、流通の強弱や、焔と煙と
の多寡や、時間の経過や、又は燃料の性質や、予知し得ない不可思議な原因
が、器の美醜を定めるのである。就中「酸化炎」と「還元炎」との区別が面
や色の性質を左右する起因であろう。概して云えば宋窯や高麗の窯は後者に、
明窯は前者により多くその美を托したようである。煙はものを静め焔はもの
を冴えしめる。還元は美を内に含ましめ、酸化は美を外に現しめる。併し焼
き尽くさず焼き残らぬ「不来不去」の境に、面は最も深くその神秘を托すよ
うである。併し面のみではない、色も熱の高低によってその美醜を定めるの
である。
私はここに「色」の美に就いて語るべき順次に来たようである。陶磁器は
色に於いても美の心を示さねばならぬ。今日まで特殊な素地と釉薬とによっ
て、最も美しい色を示したのは白磁と青磁とであろう。これは私には磁器の
色の絶頂だとも思える。続いて私が好むのは「天目」の黒や「柿」の褐であ
る。これ等の単純な慎ましい色調こそ最も驚くべき美の贈り手である。人は
白や黒を只一色よりないと思ってはならぬ。又それ等を最も色に乏しいもの
だと思ってもならぬ。白でいうならば、純白があり、粉白があり、青白があ
り、灰白がある。それぞれのものは異なった心の世界を示すのである。若し
もこれ等の至純な色の神秘が解けるなら、人は更に多くの色を欲しないであ
ろう。美への心が進むにつれて、人はいつもかかる至純な色へと帰ってくる。
よき白やよき黒を得ることは至難である。それは単一な色ではなくして、最
も深い色の世界である。凡てを含む色とも云える。彼等には渋さの美がある。
陶磁器に用いられた顔料でいつも思い起こされるのは呉州である。所謂
「染附」の藍である。支那の人は巧みにそれを「青華」と呼んだ。あの明の
舊呉州の如きは、永遠に磁器と離れ難い調和を有つ色であろう。それは全く
元素の色であるという感じを受ける。凡て自然に近ければ近いほど、美はい
よいよ冴えるのである。それが煙のために色をやや内に含める時、その色調
は美を深めてくる。化学が作るあの派手やかなコバルトの如きは、寧ろ美を
奪うに過ぎない。それは人為的には純粋な色であろうが、自然からすれば不
純なものに過ぎぬ。そこに美が薄らぐのは自然の加護がないからである。私
は是に次いであの鉄砂や辰砂の色を好む。しばしば前者は美を強くし、後者
は美を愛らしくする。奔放な味わいに鉄砂は適し、可憐な味わいを辰砂は添
える。
併し陶磁器の色彩は所謂五彩の「赤絵」に至って、その婉麗な美を尽くす
のである。色彩はここに於いて一層多様になり美麗になる。絢爛な美を好む
人は赤絵を忘れ得ないであろう。そこには必ず絵画の要素さえ加えられる。
支那は依然としてその上絵に於いても第一位を占める。あの鋭い重々しい色
彩の絢爛を、彼等をおいて誰がよく作り得よう。併し優しさや麗しさや楽し
さの美に於いて、心を惹くのは恐らく日本の色であろう。再びこの島国の温
順な自然の色がそれ等の上絵を染めている。吾々はそれを「錦手」と呼び慣
わしている。綾錦のように美しい色に飾られているからである。併し余りに
色に傾く時、美は華やかになるが力や生気を失ってくる。はでやかなものは
永くは活き難い。日本の赤絵としては古九谷が最上である。
私は色彩のことを述べるにつれて、必然「模様」にまで及ばねばならぬ。
これは陶磁器に必ずしも無くてはならぬ要素ではない。而も模様がしばしば
美を添えたことを注意せねばならぬ。窯芸はその立体の性質に於いて彫刻の
意味を有つが、模様を加えるに至って更に絵画の意味にも近づくのである。
しばしば模様が器を美しくした。概してこれを見れば古代から近代へと進む
につれて模様は複雑に移り、色彩は濃厚の度を増してくる。併しこれは美の
下降であった。吾々は真の模様に煩雑な画風を求めてはならぬ。模様はその
性質上、装飾的価値を具えねばならぬ。正しい装飾芸術はいつも象徴の味わ
いをおびる。象徴は叙述ではない。無益な煩瑣な写実は暗示の美を葬るに過
ぎぬ。深く心が美の世界に浸るなら、二、三の単純な筆致に於いて、模様は
既に充分であろう。丁度絵画の基礎が素描の中にあるように、模様も亦素描
の生気に活きる時、最も美しくされるのである。複雑な図案に優秀な模様を
見出すことは稀であろう。自然と深い交わりを有った古代の作には只至純な
模様のみがあった。あの宋の白磁青磁にしばしば見られる櫛目の如きは、模
様中の模様と云わねばならぬ。それは何等の色をも借りはしない。又殆ど何
ものをも明らかに画いてはいない。だが自由な生々した象徴の美に於いて彼
等を越える模様は稀であろう。あの奔放な刷毛目も自然に托した模様とも云
えよう。古人は単純な模様によって器の美を深めた。併し近代に於いて人は
複雑な模様の中に器を殺した。模様さえなくば美しいと思うものを私はしば
しば発見する。名もない人々の手によって作られた最も普通な器の中に、却っ
てしばしば優れた模様がある。それは作者が画工たるの意識もなく無心に率
直に画くが故であろう。又は伝統的模様に於いてしばしば筆跡の優れたのを
発見する。それは自己の作為を加えることなく、単純にあるがままに筆を運
ぶが故であろう。日本の著名な陶工に於いて最も模様の意味を知り、豊かな
模様を産み得たのは頴川や初代の乾山等であろう。彼等の筆には自由があっ
た。
次に私が注意しようと思うのは「線」の美である。形の外郭や又は模様等
を離れて線を考え得ないかも知れぬが、特に朝鮮の陶磁器に於いては線が独
立した意味を有つと私は思う。その民族が心の美を托し得たのは厳そかな形
でもなく、喜ばしい色でもなかった。長く細く引く曲線が彼等に相応しい心
の表現であった。誰かあの訴えるような線の中に、言い知れぬ情を読まない
ものがあろう。その器は一つの確実な形体であるというよりも、寧ろ流れる
曲線であるという方が真に近い。器は地に休むのではない。無情な地を離れ
て天に憧れる姿である。切れなんとして而も続く長いその線は何を語るであ
ろう。線は淋しさの美しさを吾々に示してくれる。それは憧れる心に人の涙
を誘っている。線に活きる器は情の器である。
是等の美の多くの要素を別にして、私は更に一つの緊要な美の成分が器に
はあるかと思う。それは「触致」から起こる美である。轆轤の上に器がその
運命を委ねる時、指頭から伝う触致が鋭く働いている。そこには人の感覚の
直写がある。茶器のような情趣を尊ぶものに、この触致の保存は重要視せら
れた。況んや轆轤を借りない場合に於いて尚そうであろう。陶磁器は触覚の
芸術である。かかる触致は更に「削り」に於いて新たな風韻を加える。刀の
接触はしばしば強い放逸な雅致を与えた。よき陶工は自然が与えてくれるこ
の触致の美を殺していない。よき器の面にはこの触致がいつも残されている。
否、残されているが故に器は美しくなるのである。余りに仕上げられ、滑ら
かにされたものは生気を有たぬ。私は「注込」のような方法に於いても、自
然が与える穏やかな触致を見ることが出来る。茶人が茶器の高台の内にしば
しば匿された触致の美を探ったのを奥床しく想う。
模様に於いても線に於いてもよき触致があらねばならぬ。躇いなく筆が自
然のままに走る時、美は自然の美にまで高められる。それは作らるる美では
なくして生るる美である。よき触致には自然の微妙な閃きがある。この閃き
を見逃すなら、美は再び陶工の手には戻ってこない。手法の運用には躊躇が
あってはならぬ。少しの狐疑も器から美を奪うのである。二度三度作り直し
削り変え、反復し逡巡するなら、器の美は死ぬのである。よき陶工は自然が
与える閃きをいつも見逃さない。自然に凡てを任ずる時、我が手工を忘れる
時、美が彼の手に握られている。
以上これ等の種々な性質を通じて、全体の「味」が美醜何れかの運命を最
後に決定する。これは言葉に余る味わいである。如何に技巧が鮮やかであっ
ても、形や釉薬が美麗を尽くしても、味わいを失うなら空しいのである。気
品や落着きや深みや潤いや、それ等の凡ては匿れたこの力が産むのである。
味わいとは内なる味わいである。美があらわである時、それは味わいを乏し
くさせる。内に含みがある時、美は深まるのである。「味わい」とは「含み」
である。内へ内へと美が含まるる故に、尽きぬ味わいをそこから汲み得るの
である。よき味わいとは厭きることのない味わいとの意である。それは追う
とも捕らえ得ない無限の暗示である。味わいとは象徴の美である。美を外に
示す器は、味なき器である。それは説き得る美しさを示すに過ぎぬ。よき味
わいとは「包まるる味わい」との謂い故、美がいや深く内に潜むにつれて、
味わいはその極みに達するのである。かかる匿された美の極みを、人は「渋
さ」と呼び慣わしている。実に渋さの味わいに凡ての味わいは帰るではない
か。渋さは玄の美である。老子の驚くべき言葉を借りれば、「玄之又玄」で
ある。玄は匿されたる世界、密意の世界である。渋さとは玄の美である。
(概していうならば、美を内に含ましめる凡ての手法、炎でいうならば酸化
と還元とが相交わるものが、火度でいうならば強きに過ぎるよりも、やや弱
きものが、色でいうならば様々な華やかな色よりも、ひと色の慎ましやかな
ものが、釉薬でいうならば、透明なものよりやや暗きものが、素地でいうな
らば、硬きに過ぎたものよりもやや柔かな土が、模様でいうならば、細かき
絵よりも僅かな線が、形でいうならば錯雑なものよりも単純なものが、面で
いうならば滑らかな光るものよりも光沢を匿す静かなものが味わいを出すの
により多く適している。)
形の器は心の器である。要するに密意はいつも陶工の心に帰ってくる。渋
き味わいは渋き心が産むのである。陶工はその作に於いて自からを懺悔する。
味なき心から、味わいある器は生まれてこない。心が浅く卑しいならば、作
り得る深い器はないのである。宗門に入るものが、浄罪の階段を踏まねばな
らぬのと同じように、陶工も彼の心を浄める時に美の宮居に入るのである。
人は器を只の物であると見做してはならぬ。それは物であるというよりも心
である。見ゆる姿を越えて見えざる心が漲っている。又は見えざる心の見ゆ
る現れとも言い得よう。器物であるとはいうも、そこには活きた心の呼吸が
ある。それは冷やかな器ではない。心に温められた器である。黙するそこに
は人の声があり自然の囁きがある。器の深味は人間の深味である。性情の浄
さである。豊かな真実な生活の持主を通して、真に深い作は生まれるのであ
る。又は古人のように自然のままに活き得た心を通して、尽きぬ味わいが器
に滲むのである。
一つの美がよく永遠たり得るのは、それが自然の力に守護されているから
である。自然への信仰を失う時、造り得る美しい器はないのである。自然へ
の全き調和のみが、自己を活かし美を活かすのである。自然に己れを任せる
とは、自然の力のままに活きるとの意である。我を自然に捧げる刹那が、自
然が我に降る刹那である。よき陶工は自然には敬虔であった。いささかの疑
いでも残るなら、それは自然を涜すにすぎぬ。宗教家にとって懐疑が恐るべ
きものであるように、陶工にとっても躊躇は破滅である。試みに彼が一つの
皿に絵を画くとしよう。自然への信仰がないならば、又は自然に自からを委
ねないならば、どうして彼の筆が活きてこよう。醜い線はいつも躇いある臆
した線ではないか。筆に「走り」が現れるのは自然に和するからである。自
然に従わず作為を加えるなら筆は直ちに止まるのである。技巧の超過はしば
しば生気を器から奪っている。技巧は作為だからである。作為を越えて、自
然に即する時が、美の現れる瞬間である。よき模様はいつも如何に無心に自
然に画かれているであろう。深き思索者は凡て嬰児の如き心を愛した。無我
の境に入り得ぬ者は、優れた陶工となることは出来ぬ。宗教家のみが信仰に
活きるのではない。陶工の作も亦信仰の現れである。醜さは疑念の徴である。
三
陶磁器の美を形造る様々な性質を画いた私は、今例証に筆を移そうと思う。
かくすることは尚も具体的にその美を読者に伝える所以であろうかと思う。
私はわけても宋窯が好きだ。時代は古く溯るがその時代に於いて窯芸の美
は早くも極致に達したとさえ云いたいほどだ。それ等の作を見る時或る絶対
なものを眺めるという感が切にする。私にはそれが器であるというよりも美
の経典であるとまで思える。そこから吾々は究竟な真理を汲むことが出来る。
宋窯は実際私には無限の美を示すが故に、同時に無限の真理の贈り手であっ
た。何が故に宋窯はしかく貴い気品と深い美とを示すのであるか。私はその
美がいつも「一」としての世界を示しているが故であろうと思う。「一」と
はあの温かい思索者であったプロティヌスも解したように、美の相ではない
か。私は宋窯に於いて裂かれた二元の対峙を見る場合がない。そこにはいつ
も強さと柔らかさとの結合がある。動と静との交わりがある。あの唐宋の時
代に於いて深く味われた「中観」や「円融」や「相即」の究竟な仏教思想が、
そのままに示し出されている。未だ二を発しない「中庸」の性が、その美に
あるではないか。これは私の空想ではない。試みにその器を手にして見よう。
そこには実に磁と陶との交わりがあるではないか。それは石に傾くのでもな
く土に偏するのでもない。二つの極がここに交わっている。二にして不二で
ある。啻にこれのみではない。焼き尽くさず焼き残らぬ不二の境に、その器
は美を委ねているのではないか。面はいつも顕われるが如くにして而も潜む
ようである。内と外との交わりがある。色にも明と暗との結ばれがある。恐
らくこれに用いられた熱度も千度の前後であろう。云うまでもなくこれは陶
磁器に要する熱度の中庸を示している。私は「一」としての美をそこに想わ
ない時はない。それは円相を示しているではないか。中観の美があるではな
いか。かかる性質が宋窯を永遠ならしめていると私はいつも想う。何たる静
謐な落着きがその内に在るであろう。吾々の心が乱れるならば味わい得る宋
窯の美はないのである。
(私は想う、この世での最も美しい作は皆之に類似した性質を有つのである。
高麗期の作はもとより、李朝の三島手や、ペルシャの古作品や、伊太利のマ
ジョリカや、和蘭のデルフトや、又は英国のスリップ・エアーや、何れも宋
窯に近い素地や熱度を有つのであろう。私は私の好む古唐津や古瀬戸の如き
ものをこの一群に属すると考えている。私は陶磁器としてのこれ等のものの
性質に就いて殆ど何事の学識をも有たない。併し現された美の味わいには、
著しい共通があることをいつも気付かないわけにゆかぬ。)
私は宋窯の美を想う毎に、その背景である時代の文化を想う。宋は唐の人
文を受けて、正に文化がその円熟期に達した時である。これ等の時代は東洋
の黄金時代であった。宋窯は時代が生んだのである。いつの時代に於て吾々
は再び器を通して円融や相即の文化を味わい得るであろう。私は今日の醜い
作品を見るにつけても害われた時代を感じないわけにはゆかぬ。陶磁器の国
として知られた日本は、その受くべき正当な名誉をいつ取り戻そうとするの
であるか。時代は正に何人かが起つことを促している。
その国の歴史や自然が何時も陶磁器の美の方向を定めている。あの寒暖の
酷しい、茫漠とした凡てが巨大である支那に、最も鋭く最も重い、最も大き
く最も強い偉大な美が、時代につれて現れたことは必然な命数である。宋か
ら元、元から明に移るに及んで、美は更に新たな方向へと転じている。明は
実に磁器の時代であった。凡てはより鋭利にせられ堅固にせられ、再び一つ
の極が他の極に対して全き支配を保持した。ここには宋窯に見られるような
温か味を望むことは出来ぬ。併し美は鋭さに於いてその装いを変えた。彼等
は硬い石を強い熱度を以て焼き尽くした。かくて相応しい深い藍の色でそこ
にくっきりした様々な絵を画いた。そうしてその細い筆跡にすら、鉄針のよ
うな鋭さを含めた。抑もどこからあの固い素地や強い色や線を得たのかを思
い疑わせるほどだ。時代は永遠にその偉大な磁器を人類に記念するために、
呉州の色で鮮やかに「宣徳」とか「成化」とか「萬暦」とか「天啓」とかの
字を器の裏に書き下ろした。
支那は真にその陶磁器に於いて偉大な支那であった。併し或る人々にはそ
の美は余りに強く、力の威圧をさえ受けるであろう。又時としては近づき難
く犯し難い感をさえ味わうであろう。若しも支那から朝鮮に入るならば、吾
吾は俄然として別個の世界に入るのである。前者を君主の威厳に譬え得るな
ら、後者には王妃の趣きがある。吾々は激しい夏の光から、美しい秋の淋し
さに移るのである。自然は大陸から半島へと変わるのである。
たとえその最初に於いて、宋窯の移入であったとは云え、高麗の作には犯
し得ないそれ自身の美しさがある。吾々はそこに於いてほど人を魅する美の
誘いを受けることはないであろう。心を惹く優しげな姿は凡ての情を誘って
いる。彼女の美は一度でも我々を強いはしない。併し誰がそれに近づくこと
を思い止まり得よう。それは心の訪れを待ちわびている。人の愛に憧れてい
る。誰かそれを顧みてその姿に恋情を覚えないものがあろう。器はその長い
長い線に悶えの情を委ねるようである。私は思わずもそれを手に抱き上げる。
風になびく柳の陰に、二、三の水禽が、静かな波紋をつくっている。そのあ
たりには浮草が只まばらに生い立つばかりである。それ等の風景が音もない
静かな潜みがちな蒼緑の中に、佇むがように浮かんでいる。私は又他の一つ
に眼をうつしてみる。高い空のきれぎれな雲の中に、白鶴が二羽三羽、何処
をあてどに飛ぶのであろう。只目に映るのはそれ等のものばかりである。こ
れは凡てこの世ならぬものを夢みる心の作であろう。何かは知らないが、そ
の姿を見つめる時、心が淋しさに厭せられるようである。あの流れるような
曲線はいつも悲しさの美の象徴である。私は如何にしばしばそれ等の美を通
して、その民族の訴えを心に聞いたであろう。絶え間ない苦難の歴史が、か
かる美にその心を托したのである。
線は実に情であった。私は朝鮮の線よりも更に美しく淋しい線を他に見る
場合がない。それは人情に浸された線であった。朝鮮はその固有な線に於い
て犯し得ない美しさを保っている。如何なる模倣も如何なる追従も、その前
には無益である。そこにある線と情との内なる関係を人は二に裂くことは出
来ぬ。線の美は実に敏鋭であり繊細である。それを一分だに矯めても美は立
ちどころに消えるであろう。私はいつか読者にあの京城の李王家博物館を訪
ねられる日が来ることを希っている。その高麗室は真に美の宮殿である。そ
こを訪ねる凡ての者は、よもや刃をその民族に向けることを、二度としない
であろう。
私は高麗の美を語った序に、続く時代に現れた作に就いても一言を添えよ
うかと思う。丁度宋窯が明の磁器に於いて一転化を受けたように、進んで李
朝に入る時、高麗の風は俄然として一変するのである。一個の新たな王朝の
勃興につれて、気力は自から揚り、風韻は自から新たな力を得るのである。
明朝がその磁器に於いて鋭さの美に入ったように、吾々は李朝に於いて甦え
る量の美に接することが出来る。史家は一般に李朝に於いて、認め得る芸術
がないように云う。併し少なくとも陶磁器に於いてはそうではない。私はし
ばしば高麗の作に匹敵し得る偉大な作品を発見した。私はここに二個の興味
あることを指摘したく思う。少なくともその磁器に於いて、朝鮮が明風を模
倣しなかったことは顕著な事実である。その形に於いても、再び線に於いて
も、又あの釉薬に於いてもそれは固有の美を示している。就中容易に注意さ
れるのは、その上に画かれた模様である。これは真に独歩である。私は李朝
の作が高麗に対する反動として、新たな方向に美を開いことを既に注意した。
このことはやがて朝鮮が李朝に於いて、一層鮮やかに独立した気風を挙げ得
たことを告げている。日支鮮を通じて唐宋の時代までは殆どこれを一つの文
化の発展と見ることが出来よう。然るに高麗から李朝に移ってその時代を改
めた時、朝鮮は自からの朝鮮として立ったと思う。政治的関係は尚も国家的
独立を許さなかったであろう。併しその生活に於いて風俗に於いて又工芸に
於いて、明らかに自律した一時代を劃している。少なくとも陶磁器に於いて
このことは真理である。
第二に吾々は一層重要なことを注意せねばならぬ。なべて時代の下降と共
に技巧は精緻に赴き、模様は複雑の度を重ね、従って美はその生気を失って
くる。然るに吾々はその著しい例外を李朝期の作品に見ることが出来る。私
が今取扱いつつある陶磁器に於いてこのことは否定出来ない事実である。形
は一層雄大になり、模様は更に単純化され、手法は実に無心になり、而も新
しい美の表現に於いて驚くべき効果を納めた。吾々はあの模様ともつかない
二、三の無造作な筆跡に於いて、活々とした生命の美に逢うことが出来る。
一羽の鳥や、一枝の花や、又は一束の木の実が彼等の選んだ素朴な模様であ
る。用いられた彩料は呉州と鉄砂と僅かな辰砂とばかりである。支那や日本
に見られるあの絢爛な赤絵の如きものは更に顧みることすらしない。時代は
鞏固な単純な素朴な美を求めたようである。あの大胆な削り面の手法は実に
石材を見るような堅実と雄大な感を与えている。しばしば地の柱という感じ
さえ起こるであろう。李朝に於いて直線の要素が加わってきたのは注意され
ねばならぬ。形に於いて色に於いて模様に於いて凡てが率直である。時代は
下降するが手法は単純に帰っている。この事実は近代の芸術史に於ける興味
深い異例である。それ等の純一な手法の間にその民族は尚も情を含めること
を忘れていない。よし高麗のような繊細な美がないとは云え、私はその甦っ
た新たな美を棄てるわけにゆかぬ。所謂三島手の如き味わいの美の絶頂であ
る。凡ての偉大な作は常に単純であったではないか。私はそこに於いて、更
に活々と朝鮮の心に親しむ喜びを感じている。それ等の作に於いて、吾々も
無心に率直に、その民族に触れ美に触れる喜びを受けるのである。
支那及び朝鮮の作を語った私は、必然日本の陶磁器に就いても数言を添え
るのが順序であろう。窯芸の術に於いてもとより隣国の影響が多かったにし
ても、日本は巧みに自からの感情によってその美を柔らげた。自然は大陸か
ら半島へ、半島から更に島国へと移っている。旅する者は誰も気づくであろ
うが、山は穏やかであり河は静かに流れ、気候は温かく空気は湿り、木は緑
に滴り花は色を競っている。而も海は国を守り、歴史は外から乱されず、人
は悦び心は楽しんでいる。この国に於いてほど美に楽しむ心の余裕を有った
民族はないであろう。それ故吾々の心の現れである器の美は、支那に於ける
ような強さの美でもなく、又朝鮮に見られるような淋しさの美でもない。色
は楽しく、形は優しく、模様は柔かく線は静かであり凡てが温和であった。
固くあるべき磁器も日本に於いては優しさの衣を着ている。例えばあの支那
の天啓の赤絵から、古伊万里の上絵に来るならば如何に鮮やかにその変化が
分かるであろう。この穏やかな温和な美を楽しむにつれて、人の愛は必然磁
器から更に陶器へと移った。吾々は遂に柔かい土から別種の器を作り出した。
人は温和な静かな美をここに楽しんだのである。彼等が之に与えた「楽焼」
の名は相応しい名であった。凡てのものは器を日々に楽しんだのである。柔
かい温かい器を両手に抱き上げて、それを唇につける時、如何に人は楽しい
静かな情を心に味わい得たであろう。だが多くの弱味がここに発したことも
忘れてはならぬ。「楽」はしばしば趣味に破れた。
国は情趣の国であった。漆器を除いて、彼等の愛を集めたのは実にこの焼
物であった。人々は焼物を用いるというよりも寧ろ楽しんだのである。地上
に国は多くあっても、吾々日本人ほど、焼物に趣味を有つ民族はないであろ
う。今もそれは昔と変わらない。かかる情愛が濃くなるにつれて、器は全く
吾々の情趣を充すべき器となった。かくして窯芸は芸術として深く意識せら
れた。かかる意識が益々明らかになる時、陶工は各々自からの芸術的世界を
開こうと求めた。支那や朝鮮では殆ど見られない個人的作者が遂に現れたの
である。誰々の作であるということが、人々に意味深く意識せられた。今日
まで幾多の天才が彼等の伝記と彼等の作品とを、永き遺産として吾々に残し
た。
併し日本の作に見られる通有の欠点は、趣味に対する意識の超過にあるで
あろう。作者はしばしば無心な無邪気な心を失っている。作為が余りに多く
技巧の苦心が余りに強い。かくして自然に叛くが故に美と力とを殺している。
色は派手やかであるがとかく弱く、線は綿密であるが勢いに欠ける。思考が
働くために無造作な奔放な自然の雅致に器を托すことが出来ないでいる。吾
吾にはいつも完全に対する執着がある。しばしば火は度を過ごし、形は余り
に正しく整理せられ、模様は緻密に過ぎている。かくして美を外に投げ、味
わいを内に含ませることを為し得ないでいる。楽焼に於いてはしばしば形が
奇を衒い粗に流れ不自然な姿に終わっている。作為の超過は美の殺戮である。
無心であり素朴であった古代に於いて、器は一層美しい器であった。例えば
九谷でも萬古でも古作品は美しい。だが時代が下降するにつれて美は薄らぎ
醜さが増している。
単純とか率直とか、ここに美の密意がある。それはしばしば幼稚とか平凡
とかの意に誤認される。併し無心は無知ではなく、素朴は粗雑ではない。作
為を最も少なく有つとは、自然を最も多く有つとの意である。自からを忘れ
る刹那が、自然を知る刹那である。技巧に没し人為に傷つく時、自然の加護
が彼から離れるのである。人口は錯雑を追うが、自然は単純を求める。作為
は自然への懐疑であり、無心は自然への信仰である。純一は乏しさではなく
して、深さであり力である。煩雑は豊かさではなくして、貧しさであり弱さ
である。形にしろ色にしろ模様にしろ、至純であればあるほど、美しさは冴
える。これが私の学び得た芸術の法則である。(併し私はここに一言を用意
深く添えておこう。単純が美であると云ってそれを思考して作るなら、再び
心は作為に陥っている。思考せられた単純は既に単純ではない。故にその美
は浅く且つ低い。)
私はここに至純な無心な心が美の創造者であることを書いた。私は終わり
に陶磁器に匿れている一つの挿話を添えてこの篇を閉じようかと思う。これ
は器から学び得る叡智の一例ともなるであろう。
貴方がたは殆ど凡ての器にあるあの高台を注意して見たことがあるであろ
うか。そこはいつも下に踏まれ塵に汚れている。併し殆ど凡ての場合、その
場所に作者の心が匿れている。その部分はしばしば非常に美しい。なぜなら
作者は、いつも飾りなき彼自身をそこに示すからである。高台は匿れた部分
であるため、人は多くの作為をそこに加えない。従って自然さが最もよくそ
こに残されている。作者はその高台に於いて、恐らく最も無心な作者であろ
う。彼は全く作為から自由である故、しばしば自然の美が高台に於いて冴え
るのである。特に支那や朝鮮の作に於いて、吾々は如何に多く驚くべき高台
を見たであろう。自然の無造作は雅致を造る。飾りなき高台にこそ異常な強
さの美が発見される。そこは絵で云えば素描の力である。かかる力の上に器
は最もよく安定される。器の美は高台に於いてその確実さを増すのである。
一般に日本の作は完全を期して無造作を嫌うが故に、高台はしばしば貧しい。
民窯の場合は別であるが、吾々は強い美をそこに見出すことが甚だ少ない。
無用な綿密は、勢いを殺すに過ぎぬ。これは日本の作品に流れる共通の弱味
であろう。あの「鷹ヶ峰」の銘を有った光悦の茶碗は、逆に強いて強さを誇
示した例となろう。
凡て味わいを尊んだ人は、美しさを包んでいるこの高台を非常に愛した。
この情趣は茶器を作る場合最も深く注意された。日本の作で高台をやかまし
くいうのは茶器である。作者はそこに触致の美を示そうと求めた。奔放な自
由な而も繊細な味を、小さな空間の中に仕組もうと欲した。匿れた気づかな
い場所に、尽きない美を潜ませようとした心の働きを私は潤おい多く感じて
いる。併し意識せられて高台の味わいが作られた時、それは再び醜い作為に
落ちている。何れにせよ、高台に於いて、陶工は彼の心の状態が如何なるも
のであったかを告白する。高台はしばしばその作の価値を判定する神秘な標
準である。
私は又美を産む同じその法則が、単に他の例に於いても示されることを言
い添えよう。読者よ、若し貴方が皿や鉢を手にしてその模様を吟味する時が
あるなら、希くは転じてその裏の模様に心を留めよ。不思議なことには、殆
ど凡ての場合それは表に書かれたものよりも美しい。単純な一、二の草花や
又は二、三の線や僅かな点が書かれているに過ぎない。だがそこには如何に
筆が活き、心が自由に解放せられているであろう。線を見られよ、躊躇(た
めら)いの跡があるであろうか。なぜかくも美しいかに留意せられよ。私は
芸術上の秘義がここにも説かれているのを感じないわけにはゆかぬ。表に描
く折、人は美を意識し心を装おい、見る者に対して準備する。だがそれ等を
画き終わって、匿れた裏に二、三の模様を入れる時、作者の心はくつろぎ、
無心となり、自由に帰る。思いがけなくも自然な美がここに冴える。凡てが
導くままに委任される。よき模様が生まれないわけにはゆかぬ。これは器の
陰に匿された一つの意味深い挿話である。
私は陶磁器に就いては、殆ど正確な歴史を知らず、その化学を知らない。
だが私は日夜それ等の美に心を温められつつ暮している。私はそれ等の姿を
眺める時、私を忘れ私を超えることが出来る。而も静かなそれ等の器は、し
ばしば真理の国にさえ私を導いて行ってくれた。私は美が何ものを意味し、
心が何事を成し遂げ、自然が如何なる秘義を包むかをも顧みることが出来た。
私にとっては器にも信仰の現れがあり、哲理の深さがあった。私は私の前に
現されたそれ等の美を無益にしてはならない。又恵まれたこの喜びを空しく
埋めてはならない。この貧しい一つの感想が、私の心を人々に分ける伝(つ)
てともなるならそれはあり余る悦びである。
(打ち込み人 K.TANT)
【所載:『新潮』 大正11年正月号】
【所載:私家版上梓 大正11年12月】
【所載:単行本『信と美』中に加う 大正14年12月】
(出典:新装・柳宗悦選集 第6巻『茶と美』春秋社 初版1972年)
(EOF)
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